苦痛が快感に変わるとき
苦痛が快感に変わる瞬間は、ふとしたほころびみたいなものが
痛さしかない中に、ふっと感じることが発端になるので
私は強弱がついた痛みは、ジリジリしてしまうからあまり好きではない。
肌の表面的な痛みも少し苦手…。
最初の吊りのときにも、かすかに感じるものがあったのだが
最後の三角馬の時に、自分の中にはっきりスイッチがある事を自覚した。
その快感に変わるハードルを越えるかどうかは、自分でもどうにもならないものらしい。
悲鳴を上げて痛くて痛くているのが、ふと馴染む瞬間がある。
痛みが肌に馴染むような、うっすらとするような、ふとした変化が
私の中におこると作動が始まるような気がする。
悲鳴を上げ続けていた私が、ふと黙る。
体の中のかすかな変化に耳をそばだてるような、そんな感じ。
このときにスイッチが入らないと、そのまま痛い、痛い、痛いとなって
疲れてしまう(苦笑
かすかな変化に集中する、そのときに ふっと受け取る痛みが変わりはじめて
ゆっくりと快感に変化していく。
私は、ただ呆然と見守ることしか出来ない。
痛みが快感に変わっていくとき、私の中の荷物が解け
私は自由になり、解放されるのだ。
ただ、この感覚を持つ人は非常に少ないようで、
「痛みは、単に痛いだけ。 ただし、気持ちとは裏腹に、身体は濡れる」
こういう人が多いようだ。
たぶん、生まれ持って来てしまったからに過ぎず、
訓練や信頼などでもない、ただ単に視力が弱いとか左利きとか
そういう類と一緒で、苦痛が快感に変わる気質を持っているに過ぎない。
信頼関係は、苦痛を何処まで預けられるかを裏付けるもので
苦痛を快感に変える術でもないように思う。
より信頼感が強く絆が太く深ければ、たくさん預けられる。
痛みをより強く与えられる、他の誰でもない、
私にとって最重要で最大の力を持つ人物になるわけで
最重要の人物が与える苦痛だから、苦痛が快感になるわけではないということだ。
一般に、SMを語るときに、ここが誤解されることが多く
私が訓練を持ってそうなったと感じ、自分の努力が足りないと凹んでしまう女性がいたり
男女問わず引いてしまう人も多いのが、苦痛系の淋しさでもある。
私には、少々 荷が重い…。
痛みが痛いままでもいいし、痛みが快感に変わったっていいではないか。
私にとっては、痛みが快感に変わることは二次的な効果でしかない。
私は、思考が全くなくなるような、視界が炸裂する痛みが必要で
痛みを受けることが必要であり、痛みを受けるときすでに目標を全うしている。
後は、どれだけたくさんの痛みを、怪我させないで与えてくださるのかがポイントで、たくさん与えていただければ、おのずと解放へつながっていく。
私を与えて欲しいものを受け取りたいだけの、エゴイズムのMと見る人もいる。
主従もないし、奴隷でもない。命令に服従したいわけでもない。
『お互いに幸せならそれでいいのでしょうけれど、SMしてるとはいえないよね』という理論…。
私はSM論には興味がない…。
苦痛を欲しがるなんてノーマルではないから、自身を変態と自覚している。
変態であるゆえに、Mと名乗り、
変態であるゆえにSMをしていると意識している。
それが、SMの提議するところをずれていようと、
主が私を認めていてくれるなら、私は主の傍にいられる。
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