痛みに関して…
痛みとは、信号の数値に似ている。
私が痛いと全身で叫び、身体が真っ二つになるような苦痛に叫び
絶叫するような時、激しく身体から信号が点滅する。
いわゆる道路にある、赤や青の信号ではなく、どこかソースコードに似た、暗号化された、私の身体が刺激を受けて発する、細かい半角英数字のような(笑)
そんな暗号のように感じる。
http://sutekinajikan.blog69.fc2.com/ ←これは、ここのブログのアドレスだが
もし、このどれかの数字や、英数の何かが入れ替わっても、ここへは飛べない。
http://sutekinajikan.blog69.fc2.com/
↑↑↑突っついてみて欲しい^^
一番後ろに、スペースを一個入れただけで、もう飛ばなくなる。
苦痛を受け入れるときは、こんな感じなんだ。
ある一定の強さと重さを、私がこれは、「安心できる苦痛である」と、どこかで感じる。
身体のどこかの扉が、ギィギギギーときしみながら、
そのソースコードだけを通過させるような、そんな感じだ。
スペースが余分に付くと、「ページがありません」となるように、扉の向こうへは行かない。
つながる道が無い、異物として身体が感じるような、そんなところだ。
私の何処が作用して、ベルトの金具でひっぱたかれるような激しい痛みを、
「安心できる苦痛だ」と感じるのかは定かではないのだが、拘束され悲鳴も抑制され、動けない、もうダメだと一種の絶望感に浸ると、信号(ソースコード)が発令されるような感じ…。
信号化された苦痛は、身体がもう拒否をしない。
徐々に力も抜け、声も出さず、息も穏やかになり、眠るような気持ちよさの中に居る。
あたり方で、骨を痛打したり、打ちつけられていないところの
信号が出来てない痛みが来ると
http://sutekinajikan.blog69.fc2.com/が
ttp://sutekinajikan.blog69.fc2!!になったり
ttp://sutekinajikan.blog69.fc2.co?????になり、覚醒する(笑)
ソースコードが壊れて、飛ばなくなったのだ(笑)
悲鳴を上げて、身をくねらせ、苦痛に踊る。
でも、http://sutekinajikan.blog69.fc2.com/同じ刺激が来ると
また眠るように穏やかになる。
強弱にされると、信号が何だったか訳がわからなくなり、混乱する(笑)
痛みだけに踊らされ、悲鳴をあげ逃げ回る。
鞭の種類を変え、色々な苦痛に対応するのは難しい…。
一番困るのは、
主に対するメンタルな部分が、正しい信号の発生を止める作用があって
精神的に鬱屈を抱えたままプレイするのは、自分にとても辛い状況になるから、逢うことは出来ない…ということだ。
私の性癖の妥協のなさは、もう自分いじめのようであり、本当に嫌になる。
私が、これほどまでに苦痛を求めるのは、苦痛に甘んじて
全身が苦痛のことだけに集中している時に、私が色々な思考から解放されるからだ。
寝ていても仕事を続けてしまう(実際寝ているときに思いつくことが多い(笑)
自分の力量だけの勝負で世の中を渡っていて、何処にも所属しない(笑)
一匹狼そのものであり、私の実力だけで生きてきた。
当然、私のプレッシャーは大きく、日常は戦いの場であり
常に予断を許さない、戦場そのものだ。
私は、遊びに行っても、遊べない。
仕事の目線でしか物を捕らえず、
常に考え、常に己を鑑み、己に挑むために如何したらいいのか考えている。
遊びを純粋に楽しむ事を、昔から知らないのだ。
子供の時からそうだった。
苦痛に悲鳴を上げて、信号が発せられる時までの、ギリギリの限界点に達する、
そのときの、頭の中が痛みだけでいっぱいになり、
目の前には痛みからくる炸裂する火花が飛ぶような時、私は恍惚を叫んでいる。
私が、自分自身からの拘束がはずれ、長い試行錯誤から解き放たれ、
今このとき、「私は自由だ!」と歓喜を上げている。
何から自由になったのかといえば、
自分を厳しく管理する「自分自身から」なのだから、お疲れ様な話である。。。_| ̄|●|||
私は自由を謳歌するために、きっと信号を発するのではないかと思ったりするくらいだ。
たっぷりと味わい、もっとねだり、さらに多くの開放感に酔うために、きっと信号化がなされるように感じる。
私の身体が熱くなって、蚯蚓腫れでさえあっという間に自己治癒してしまうのは、
全身全霊が歓喜を叫び、恍惚に酔い、苦痛に悦んでいるからだと思うくらいだ。
ただ、感情が付いてこないと、この儀式は行えない。
私の辛いところが、
「辛い!辛い!」と叫んでいる気持ちのままでは、逢うことはできない。
ソースコードに、全部「辛い」がくっついて、
飛んでいく先が私の「とても辛い」悲しみの場所へと変換されてしまう。
私は、一打ごとに傷をえぐられ、傷ついた気持ちを深く感じ、いたたまれない思いになる。
痛みでいたたまれないのと、心の痛みが相乗効果になって、よけいに辛く、悲嘆する。
文字通り、痛切な痛みになったとき、私は何処へも居場所がないと感じる。
まさに、「ページが有りません」
行く場所が、もう何処にもない。
居られる場所を失くした。
私は、気が狂ったような気持ちになる。
恐ろしすぎて、直面することは出来ない。
たった一つの癒される安らぎの場所が、もうなくなってしまうという恐怖に、激しい絶望を感じてしまう。
話し合ったり、実際に会って溝を埋めればいいというものでもない。
私が主に逢うということは、もうそこで身体が勝手に起動してしまう。
痛みを受け取るための準備にいそしみ、歓喜を受け取りたくて、思考も止まる。
主に逢いながら、プレイしないなど、私の中にはありえない。
身体がいくら求めても、身体に反して心が置き忘れられたら、絶望しかない。
逢えない悲しみは、他の何物でも誤魔化すことはできない。
私の感情は、
私が常に抑えてコントロールしようとしている抑制から逸脱し、ここぞとばかり暴走する。
私自身の個人的感覚では、「苦痛に依存する」ということは、つまるところ、他の何物でも楽しまないということの代償だ。
他の何物でも楽しまず、安らぎも無く、疲れを癒すものも無い。
苦痛に依存するということの代償は非常に大きく、
私は何処まで行っても自分を休ませることは出来ない。
感情が暴走する時は、逢うことも出来ないし、疲れて倒れるまで走り続けるだけだ。
ガラクタになるまで走る。
這いずって、ぼろきれになり、見失い、泥水に頭から突っ込み、暴走する心は止まらず、自分では止めようもない。
最初から、先の見えている負け戦に、わざわざ背水の陣で挑んでいくようなものだ。
矢羽つき、刃折れ、炎上する真っ只中に立ち、吼える。
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